元全国高等学校女子硬式野球連盟・事務局長「四津浩平氏」は1995年までの10年間、中国北京に長期/短期滞在を繰り返しながら、中国男子中高生の野球指導に力を注いでた。
指導を始めて10年が経過し、日本のチームが中国との交流試合にやって来るようにもなった。そんな中、ある日のこと四津氏が何気なく自分が日本の大学で女子野球部(軟式)の監督をしていた事を北京の教育委員会の人に話しをしたところ、「是非、我が国の女子にも野球を教えてやってほしい」と強く求められたのである。当時の中国は「2000年オリンピックは中国で!」と盛り上がっており、国全全体がスポーツに対して貪欲になれる状況が生まれていた。早速、次の日から2週間づつ2つの学校の女子選手に対し硬式野球の指導を行った。
帰国後しばらくして、北京の教育委員会から四津氏に電話が入った。日本で女子硬式野球の練習試合をさせて欲しいというものだった。四津氏は困った。なぜかというと、その時日本の高校には女子の野球がなかった。中国の女子に自ら硬式野球を教えておきながら、いまさら日本には女子硬式野球は無いとはとても言えなかった。
それから、四津氏の対戦相手探しが始まった。日本の高校野球連盟でも女子硬式野球は知らないと言う。そこで、高校のソフトボール部に対戦相手になってもらえないかと、20数校まわってみたがどこも検討の余地なく断られてしまった。「どこの馬の骨かもわからぬ者が、前例の無い女子硬式野球の対戦相手になって欲しいといったところで、良い返事がもらえるわけがない・・・」思い直した四津氏は、北京の教育委員会に「交流試合を通じて日中親善を図りたい。」という旨の手紙を書いて頂くようお願いした。ファックスで送ってもらったその文章を手に、もう一度、学校をまわった。その結果は、今度は「一度、考えてみましょう。」という前向きの返事をもらうことができた。そうして、東京の駒沢学園女子高校と立川女子高校の2校が、ソフトボール部から臨時に硬式野球同好会を作って出場することを申し出てくれた。
しかし、まだ入国許可の問題が残っていた。中国から団体を日本に招くことは個人ではできない。しかし、四津氏を取材した事のある毎日新聞社北京特派員が、その時、本社の論説委員をしており、その人の紹介で日本対外文化協会に協力を求める事ができ入国の許可が下りた。中国から日本に招くための旅費・滞在は四津氏自らが負担した。
そして、1995年8月24日、中国から1校、日本側2校による『日中親善高等学校女子硬式野球大会』が福生球場において開かれた。日本で始めての女子高校生による硬式野球の試合であった。
中国との親善試合の成功に意を強くした四津氏は、翌1996年、韓国との交流試合に向けて準備を始めた。この時、韓国とのパイプ役となってくれたのが、福岡市にある『しいのみ学園』の創設者・昇地三郎氏である。昇地氏は1970年から韓国の大邸大学教授兼大学院長として迎えられ、韓国の教育と福祉の向上発展に尽くされた方でもあり、韓国に詳しかった。
地氏の尽力で、ソウルの有名校・新亭女子商業高校のソフトボール部が出場する事になった。同校のソフトボール部は1ケ月間硬式野球を練習し1996年夏に来日。迎えた日本側は、日中親善大会に出場した2校に富山県の高岡第一高校が加わり、計4チームによるトーナメント方式で行われた。
中国、韓国と2年続けて親善大会がうまくいき、四津氏は日本で全国大会ができるのではないかと思い始めた。
そこで、全国の高校の校長宛に1500通の手紙を送ったが、予想は外れ、同封した返信用葉書が返ってきたのは半分で、参加申し出の学校は5校であった。さらに、そのうちの1校は途中で断りの連絡が入った。
交通費や滞在費の負担が参加を見合わせる原因になったようで、遠方のチームの参加は夙川学院高校の1校だけであった。また、全国でいち早く女子硬式野球部を創設した鹿児島の神村学園は、当初部員が8名しか集まらず出場を断念した。
こうして、5校が集まり、1997年に『第1回全国高等学校女子硬式野球大会』が福生球場で開催された。
遠方のチームも参加しやすくするため、翌年の第2回大会ではスポンサーを探した。遠方からの参加となるチームに滞在費等の援助をして、交通費のみの負担で参加できるように配慮した。その結果、出場校は8校に増えた。
翌年の第3回大会では9校の参加があった。
その後、第4回が行われた2000年からは春の選抜と夏の大会との年2回開催となり、開催地も兵庫県の市島町に移した。今年2006年には春の選抜大会は6回目を数え、夏に開催される大会も節目の10回目を迎える。
現在も地元の方や、スポンサー企業、そして女子硬式野球に興味を持ち応援してくれるファンの方に支えられ、一歩一歩確実に成長を続けている。
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